JR関駅・1995年


紀伊半島徒歩旅
4日目の朝。


JR関西本線、関駅。
ここは夜だけ無人なので、
駅宿をさせて貰った。


駅のベンチで寝るので
あるが、これは路上とは比較にならぬ快適さであった。


5時25分起床。6時頃、駅員さんが列車に乗ってやって来た。
旧東海道の関宿は、国道を挟んだ向い側。再訪は8年後。
再訪出来るとは、この当時思ってもみなかったけれど。
更に大阪からでは無く、東京から徒歩で再訪する事になるとは、
更に思わなかったけれど。

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サンテレビの震災特集を観ていた。地道に活動を続ける歌手の
川嶋あいって、偉いなあ・・・と、ローカルなネタを一発カマして、
もう眠い。他所の土地では他人事の阪神・淡路大震災。あれから12年。


僕が住む大阪市の海沿いの土地は、対岸の神戸の街が見渡せる。
震災の日、対岸は凄まじい煙に覆われていた。


我が家で、最初にその前触れに気付いたのは、昨年死んだ愛猫だった。
僕のユタンポ代わりとして、だっこして寝ていたのであるが、
早朝、突如ビクンと跳ね起きたのだ。おいどうしたと僕が目を
覚ました直後、ゴゴゴゴと地鳴りがした。「え?え?」と思った直後、
ズドンと揺れが、来た。大阪市内の外れでも、しかし結構揺れた。
テレビをつけると画面は真っ暗。ローカル局の早朝の生放送が流れて
いたのであるが、揺れの直後に照明が落ち、画面が消え、音声のみの
放送であった。アナウンサーは、興奮を隠せぬ口調で、しかし冷静を
保つように、と必至に訴えていた。覚えているぞ、朝日放送の番組だ。


余震が続く中、関東の親戚から一斉に安否確認の電話が掛かった。
しかし、間も無く回線はパンクし、寸断された。その後、
兵庫県南部地震」という名前が挙がった。「阪神大震災」と
名を変えたのはそれからどれ位経った頃だったか。


親戚が、神戸市垂水区に住んでいる。連絡が取れない。父の指示で、
近所のスーパーで水と食料を買い込み、当時の愛車ヤマハのセローに
いっぱいの荷物を括りつけて、僕は単身親戚宅に出発した。


間も無く現れた地獄絵図。一瞬で破壊されつくした街を、目に。
クルマで溢れ、大渋滞するR43を、バイクの特権「すり抜け」を
これでもかと駆使して、1時間半で走り抜く。クルマなら半日は
たっぷりと掛かったであろうか・・・

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駄目だ眠い。ちょっとここいらでやめておきます。しかし折角ここまで
書いたのであるからして、明日、出来れば続きをば。前後編で行きますか。
とか何とか書きつつ、明日は全く関係無い事書いていたりして。
直接の被災者じゃないからねえ、所詮僕は。所詮は。


唐突過ぎますが、切ります。明日もいい日にしてみせますよ。
おやすみなさい。