幾時代かありまして

時代は幾つも通り過ぎて

「夏と悲運」 今夜も書けないもんだから、
 中原中也未刊詩篇より一部を。


「とど、俺とした事が、笑ひ出さずにやゐられない。
 

 思へば小学校の頃からだ。
 例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
 唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー
 すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
 格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのぢやない、
 起立して、先生の後から歌ふ生徒等が可笑しいといふのでもない、
 それどころか、俺は大体、此の世に笑ふべきものがあらうとは
 思つちやゐなかつた。」
 

あるのか、この世に笑うべきものなんてよ。
あるのかよ。心底笑えるものなんてよ。


「大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
 夏の暑い日に、俺は庭先の樹葉を見、蝉を聞く。
 やがて俺は人生が、すっかり自然と遊離してゐるやうに感じだす。」


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中也はこのように言ったと、ある。


「俺の詩はみんな筋金がはいっているからな。
 ぶったって、たたいたって、四十年や五十年は・・・」


自負は、しかし、紛れも無い真実へと。
本物は、如何様にも在り、時代を容易く超える。


「日本のアルチュール・ランボー」と評される事も
あるらしいが、ランボーの詩より、僕には遥かに身近に
感じられる。「地獄の季節」も、「イリュミナシオン」も
こころを開いて読んでも、どこかどうしてもしっくり来なかった。
阿呆な僕にはついて行けない絶対的で絶望的な壁があった・・・
かもしれない?


でも、中也の詩は、実にしっくりと来た。
ある意味作業に困難を極めたのであろう外国人の「訳」詩と、
僕と同じ日本人が書いたそのままの詩との大きな違いもきっと
あるのかもしれないのだけれど。でも、でも・・・うーん。
上手く表現出来ねえな。ごめん。解らん。


中也は昭和初期に活躍した人だ。しかし、その言葉は
今を生きる中途半端な存在である僕の心に直に届いた。
30歳で亡くなったという。僕はその歳を4歳も越えてしまった。
あと、どれだけ生きるのかな。こんな感じで生き続けていいのかいな?
どんどん、どんどん越えて行くのだ。何があろうとも。うん。
そして何時しか老いて。


明日もいい日にしてみせますよ。
幾時代かがやがて過ぎ、幾時代かがやがて死に。
幾時代かがあなたを試す。試験はもしかしたら
たったの一度きり。


寝ます。