1997年・福島県

朝からずっと災害情報を
観ていた。これが21世紀の
日本なのかと。


自分ばかりがしんどかったり
苦しかったりしていると
つい思ってしまう。他の
奴はしあわせだ。しかし実際は世界は広く、すぐ近くの
誰かも「何故自分が」と思いながら辛い日々を送っているの
かもしれなかった。雨がずっと降り続いていた。


調子が良くなれば、また何か出来るし考えられる。何か
欲しくなれば手に入れられる、食べられる。そこへ行き、
空気を吸い、この目で見て、感じられる。私が病人では
なく、ただの人である事を知る事が出来る。
いや、調子の良くない今だって僕は眠りたいと思えば
今日1日そうしていたように眠り、明日からの事や、
過去の旅の日々へと想いを馳せる事だって出来る。
この上、何を望むというのか。


旅の空の下で、嵐を何度やり過ごしただろうか。ただの人で
ある事を思い知り、ただの人である事で謙虚さや恐れを
知り、何とか人としての道を進んでいる。嵐が過ぎ去れば
それをどうにか乗り越えた強さもまた知るのだろう。
今も旅の途上に過ぎず、ただの人は怖れや惨めさだけを
拾うアンテナが神経質に働いているだけに過ぎないのだと
思いたい。ただ、それを続け循環させる為には、これからも
生き続けなくてはならない。隣りにあるのか、遠い山の
向こうにあるのか知らない死を、少し待たせなくては
ならない。忘れて享楽的になるのではない、待たせるのだ。
それ位はしてもいいだろう。