秋空高く

今週も始まりました。
朝晩はひんやりと
しているけれども
日中は少し暑い。


それでもあの真夏の異様な
暑さからは漸く逃れられた
みたいだ。しんどさは今も残っている。体力よりも気力の
衰えを感じる昨今、踏ん張り所だなあと思う。
このままもういいやと気持ちを衰えさせてはなるまいて。
幸い土日で崩した体調は戻りつつある。本日は隣接する他の
市にある病院まで脚を運んだし(自転車だ)、昼食もそこそこ
美味しく食べられた。後は気持ちをどんどん前向きにして
行く事だ。正直その方法なんてよく解らんが、もがくしかない。


先日購入した早川義夫さんの「心が見えてくるまで」を読んでいる。
この方の音楽には衝撃を受けたし、その著作は折に触れ読み返している。
何だろうか、上手く書けないが、上手く生きられない人がそれでも
不器用に、そしてあちこちにぶつかりながらも自分と向かい合い
ながら時を過ごしている。音楽や性、器用にこなせない人間関係、
不安になったり苛々したり、時に心安らいだり、そこには常に
揺れ動きながらも何かを求めている、生きている、生きようとしている
実生活者が存在している。社会人として上手くやる事だけが人として
仕合わせなのかどうか、ふと考えてしまう。


「音楽をやっている人は音楽を聴かない」という項目があった。
仕事で音楽に関わっているし音楽を創っていると、他者の音楽を
聴く気になれない? のだろうか。僕の解釈は少し違うのかも
しれないが、しかし「音楽をやって」いない僕も基本的に音楽を
聴く習慣がない。何となくだが同感する。世間を見回すと皆
イヤホンを差し込んで音楽を聴いている。でも僕は聴きたい音楽が
ない。いや正確に書けば好きな音楽家は何人もいるが、でもだからと
いってそれを外に持ち出してまで聴く事はしていない。街に出ると
あちこちから音楽が聴こえて来るが、実に鬱陶しく思ってしまう。
そうなるともうそれは音楽ではなく雑音である。街は雑音で溢れ
返っている。でもこんな事を他人に語ればたちまち変人扱いだろう
なあと。そりゃそうか。僕が楽器を弾くのも少しは関係しているのか?
好きな曲のコピーをしようとは思う時もあるが、それ以外では
音なんて要らない。誰かといる時は構わないけど、独りの時はほぼ
無音でいい。このひねくれ者め。


立場上立ち回りに気を遣うが、ひとりの人間として実はそんなに
器用に生きる必要なんてないのではないかとこの方の著作を読むと
思ってしまう。少しだけ気が楽になる。僕の根幹にある悩みが
解消される訳でもないだろうが、しかしその少しだけは案外大きい。
良い言葉になかなか出逢えないが、こうして時々出逢うと少し
ドキドキする。まだそんな気持ちを持ち合わせていられたのだと
知ると、僕の日々も案外捨てたものではないのではないかと
何となく思える。もう少し頑張ってみようか。
寝ます。明日もいい日にしてみせますよ。ではまたね。