2011年・神戸

本日は仕事だった。
おまけに帰宅が
少し遅くなった。


テレビは観られ
なかったが、今日は
阪神淡路大震災から
20年の特集で番組で埋め尽くされていたようだ。


毎年毎年この日記でも当時の事を書いている。内容は毎年ほとんど同じ。
でも同じ事を書き続ける事で忘れてはいけない出来事だと再認識する
ようにしている。当時の僕はまだ学生だった。大阪市内はとりたてて
被害は出なかったが(多少はあったが、現地に比べればどうという
事もない)淀川を越え、兵庫県に入るといきなり多くの民家の屋根に
ブルーシートが掛けられている風景が出現したのを憶えている。
バイクに乗っての郵便配達のアルバイトを夏と冬の休みによく
していた為なのか、震災数日後僕に大阪中央郵便局からお呼びが
掛かったのだった。そして電車で淀川を渡った僕が見た風景が
上記したものだった。


震災発生の時は大阪市内も相当揺れた。後にも先にもあれだけ
揺れた事はなかった。「ゴゴゴゴゴゴ」と地鳴りがあり、その
直後に揺れが来た。ニュースで神戸辺りが震源だと聞いて、親戚が
神戸市に住んでいるので母が電話をかけたがつながらない。兎に角
現地へ行ってみようと僕は地元のスーパーで買い込んだ水と食糧を
バイクのリアシートに括りつけて出発した。そしてそこで見た光景は
よくテレビで流れている倒壊した阪神高速道路、そう、あれだった。
信号も止まり、交通法規もへったくれもない無法地帯だった。
でも四輪車は既に大渋滞。オフロードバイクに乗る僕はその脇を
すり抜け強行で突き抜けた。必死だったせいもあるが、ひたすら
すり抜けだけで進んだ割りに、親戚の家まで通常時とほぼ変わらない
1時間半で到着出来た。三宮の街が壊滅していた。あの光景は恐らく
一生忘れない。爆撃を受けた町のようだった。沢山の人が死んだの
だなと後から思ったが、この時はただただ圧倒され、何も考えられ
なかった。途轍もない情況の中、僕は走っていた。


親戚は無事だったが、知人宅に一時避難する事となった。僕のバイクに
乗って貰い、数日に分けて避難させた。郵便局のアルバイトに関わった
のはその後の事だ。最初は上記の通り電車で通ったが、途中で寸断されて
いて不便なのでバイクで通いだした。毎日毎日被災地で過ごした。
帰宅すると震災被害の欠片すらない大阪の街の風景。このギャップに
激しい違和を憶えた。でも僕も所詮は通うだけの人間であり、当事者
ではなかった。暫く働いた後、僕は自分の生活の為に神戸を離れた。
その後は震災の話題からオウム真理教の話題へと世の中の・・・と
云うよりマスコミの関心がシフトして行き、すぐ近くに住んでいた
筈なのに僕の関心も移って行った。


この20年で僕の生活環境もそれなりに変わった。いまだに独りもんと云う
情けないありさまは変わらないが、何故か困っている方々の支援をする
仕事に就いている。一応この業界に入って12年目となった。勉強不足で
毎日手前の無知を知り恥ずかしい次第ではあるが。今後地域で大きな
災害が起きてしまった時には、それなりに対処して行かなくてはなら
ないだろう。東日本大震災の時も、現地の地域包括支援センター
様々な活動をしていたのかもしれない。現在、ネット上で少し調べて
みると、やはりそのようである。でも僕に、それが出来るのだろうか。
人を支援している気になっているが、未曾有の事態が起こった時、
僕はどうしているのだろうか。


20年、時の流れの速さと、変わった街の風景と、どうあっても
変われない気持ちと変わろうとする気持ち。何が人を変えるのだろうか。
何が人を変えずに留めておける、若しくはそこに留めてしまうのだろうか。
今を生きている人は、生きていると云う実感を持ち、自分にかかる
不幸と思えるものや時々訪れる仕合わせらしきものを大切に認識しながら、
断じて自分で自分を終わらせてはならない。そう強く思っている。
でも、それは極めて脆弱な意思表示だ。人生はまるで解らない。
時の流れの中で今と次の瞬間とで心は揺れ動く。


僕もやがて去るが、まだ時間はそれなりに残っている。
諦めてもいいが、そんなにお人よしでもない。生きてるんだ
何かを成し遂げたい。希望を持っていたのに死んでしまった人が
いるのなら、今を生きている人は希望が見えなくとも何かを求めて
生きなくては。それが残ったものの役割だ。


寝ます。死んだのではなく寝るだけなのだからまた明日が来る。
生きている。その事に感謝を。明日もいい日にしてみせますよ。
ではまたね。