ぼんやりした日々の中で

海は変わらない

2月も半ばになって
しまった。


本日もオリンピック
中継を観たりハロワ
以外の求人サイトを
観たり、買い物に
出掛けたり、楽器を
弾いたりしてぼんやり
過ごす。


全力で頑張っている人々を見ていると、時々「俺は何やってんだろう」と
自己嫌悪に陥る事が随分昔にはあったが、今は素直に賞賛し、自らへの
発奮材料のひとつとして認める事が出来る。頑張れば何もかも報われる
なんて甘い事はもう流石に思わないが、例え報われる事がなくとも
頑張らなくてはならない時が人の世界にはあるのではないかとの(やや
青臭さがある事を否定はしないが)想いを今は持続している。
頑張り過ぎる事は精神衛生上あまりよろしくないのかもしれないが
頑張る事がかっこ悪いだとか恥ずかしい事だと思う事はもっとよろしくない。
どうせ人間なんてかっこ悪くて恥ずかしい。だったらがむしゃらに
頑張ってみる事はそんなに悪い事でもないだろう。まあだからと云って
がむしゃらに頑張れない僕も確かに此処に居る訳だが。


仕事から離れてぼんやりしている日々が続くが、心の中では自分なりに
頑張って来た日々にまた戻りたいと切望している。それは社会の中で
働き(大した賃金ではないが)誰かの為に働く福祉の仕事に自分なりの
生きる道を見出したからだ。自分がこの世界に短い間存在する理由を
こじつけるとしたら、それになるのかもしれないからだ。マズロー
欲求5段階説で云うならば「自己実現欲求」とやらに当たるものなのかも
しれない。(無論、組織や社会に属したいと云う社会的欲求を満たす
事にもなるが)仕事にばかりそれを求めるのはどうかとも思うが、僕の
この10年近い日々はそれに充てるべく頑張って来たのかもしれないと
近年思う様になった。ごめん、酔っ払いながら書いてるのでもう
ごちゃごちゃですな。


仕事に就かずに社会に出ないニートやら引き篭もりなんて人々の中にも
きっとそんな事を願っている人がいるのかもしれない。何かを成し遂げたいと
切望しているのに、環境や個人の資質やその他様々な要因からもう一歩
踏み込めないままに時間だけが過ぎてゆく。それはそれでかなり辛い。
そう考えるともう僕はそんな人々を批判出来ない。でも、そもそも
僕自身だってふらふらと旅に出たりとまるで生産的な活動をしていない
20代を過ごしたではないか。何が彼等と違うものか。差なんて無い。
あるのは「たまたまそうなった」と云う事実だけだ。


ふと、ケアマネとして働いていた日々を想い返して何が一番嬉しかったかと
考えてみた。利用者さんやご家族から「ありがとう」と声を掛けて頂いた
事もさる事ながら、最悪な環境にいた方が関わった我々の努力などで
「どうにか改善されていた」事を確認出来た時だった。お礼なんて別に
要らない。そんな事をされると逆に照れてしまう。そんなもん要らんのだ。
そもそもそれが僕達の役目なのだから。でも、報われない事も多かったっけ。
上手く関われず非難された事も一度や二度じゃなかった。情けなさも
散々味わったっけか。


酔っ払いはそんな事を考えつつまだ22時前なのにもう眠くなって参りました。
いい歳こいてなんて青臭いのかしら。何が書きたかったのだ俺は。
取り敢えずもう少しオリンピック中継観てからねます。頑張る人々に幸あれ。
明日もいい日にしてみせますよ。ではまたね。