神戸の鉄人

神戸に住む伯父さんから
先日DVDが送られて来た。
時々送られて来る。


伯父さんは奥さんが
30年前に亡くなり、
子供達もすっかり
独立したので現在は
独居だが、元気に
過ごしている。カメラが趣味で、あちこちに出掛けてはその画像や
動画を収めたDVDを送って来ては電話で母に「観てくれ」と話している。
話の内容は大概が想い出話らしいが、この時期になるとやはり震災の
話もしているようだ。考えてみればあれからもう19年も経ってしまった。
阪神淡路大震災の折、被災した伯父の家に向かって学生だった僕は
バイクに食料や水を満載して走ったのであった。その当時の事は毎年
この日が来るとしつこく書いていたが、今年もやはり書く。もう恒例だ。
当時の朝、僕の布団の中に入っていたネコがいきなり飛び起きた。
僕はそれにびっくりして目が覚めたのであるが、そのすぐ後に
ゴゴゴゴゴ・・・と地鳴りが。直後にもの凄い揺れが来た。
アワアワしつつも反射的にテレビをつけると丁度この番組をやっていた。


阪神淡路大震災発生の瞬間


僕はアナウンサーが「カメラの前の皆さん・・・」と云った辺りから
観たと記憶している。結局この日は学校は休みとなり、僕は1日中
テレビの前から離れられなかった。揺れはかなりのものであったが
幸い大阪はそれ程の被害はなかったようだ。しかし甚大な被害があった
のが神戸だったと解るにつれ、事態の深刻さを知った。伯父の家に
走ったのはその後間もなく。阪神高速の高架がへし折れ、交通は寸断。
国道はクルマで大渋滞。信号も止まっている。僕はオフロードバイク
なので躊躇なくすり抜けを行なった。バイクはみんなそんな感じでもう
無法地帯だ。伯父の家には1時間半で到着。クルマなら半日掛かった。
何度も何度も往復した後、僕は伯父と子供達(いとこだね)を宝塚市に住む
伯父の知人宅に避難させて役目を終えた。三宮の街が壊滅していた光景は
今でも忘れない。


その後、郵便局のアルバイトで灘地区へと向かった。スーパーカブ
郵便配達をしたが、配達先の家々は軒並み倒壊しているので仕事に
ならなかった。「どこそこ小学校の体育館に居ます」の張り紙があった
方に関しては郵便物を届けられたが、それも1件だけだった。当時配布
された現地地図は今でも大切に保管している。倒壊して配達不能の書き
込みが局側から事前にされているものであった。その後は内勤に廻ったが
次々見えられる被災者達への対応はかなり大変であった。それでも僕は
只の余所者でしかない。本当に大変だった人々が誰かは書くまでもない。
ケアマネとして当時被災した後に人生が狂ってしまった方を担当する
機会が以前あったが、当事者でない僕にはあの時の街並みを想い出して
その方の苦難を想像するしか出来なかった。


翌年、僕は当時の知人と共に神戸を再訪した。たった1年とは云え予想
していたよりも復興が進んでいたのが印象的であった。その後神戸を
再訪したのはそれから随分後、今から3年前の事であった。


2011年1月22日撮影。メリケンパークの一角には震災メモリアルパーク
ある。震災当時のままの姿を残している。東日本大震災は奇しくもこの
2ヵ月後に発生している。そこからも既に3年近い年月が過ぎてしまった。


消えてしまった風景や去って行った人々はもう記憶の中にしか存在しない。
その記憶を持った僕達もやがてこの世を去る。記憶はやがて歴史の中の
出来事のひとつでしかなくなってしまう。戦争だってそうだし、そんな
大事でなくとも人々の生きて来た幸せな日常だってそうだろう。やがて皆
いなくなり、次の世代の人々が世界を創って支えて行く。自分が今この
時代に生きて存在している事とは一体何なのであろうか。


しかしそれでもこの世にいる限りは憶えておいたり誰かに伝えたり
しなければならない事が誰にでもあると思う。去って行った人々の
無念を想像するだけでもいい。それが生きて、今の時代に在る者の
小さな役割なのではないだろうか。そんな事を折に触れ考えてみたい。


明日もいい日にしてみせますよ。ではまたね。