15年後、神戸。

神戸へ

昼から神戸へと
向かった。


阪神高速湾岸線
乗る。あっと云う間だ。


オートバイはまだ
動かせないので
父の車を借りた。


ものの20分も走ればもう三宮だ。僕の住む街から、そんなに近い場所で
阪神大震災は発生した。丁度15年前の事となる。


僕はまだ学生だった。その日の早朝、布団の中に潜り込んでいたネコが
物凄い勢いで飛び起きた。それに気付いて僕も起きた訳だが、直後に
ゴゴゴゴゴ・・・と地鳴りがあり、間も無く来た。


大阪市のはずれにある僕の街では被害も無く、その後幾度かの余震に
用心するだけでその日は済んだ。隣りの大正区液状化現象があった
らしいが。


この日、僕は地元の街の高い建物から、対岸の神戸を見た。大阪湾の
向こうに、信じられない範囲で煙が立ち上っていた。街全体が燃えていた。


関東に住む親戚から安否確認の電話が殺到した。回線は間も無く
パンクした。神戸にも親戚が居る。連絡が取れない。水と食料を
買い込んで、取り敢えず届ける事にした。行くのはバイクに乗れる
僕だ。四輪では小廻りが効かないかもしれないからだ。判断は正解。
小廻りが効かないどころか、もう途轍もない大渋滞。電気が止まって
いるので信号は役に立たない。阪神高速は倒壊している。四輪車が
糞詰まり状態になっているその横を、ひたすらすり抜けて進む。
交通ルールもへったくれもない。無法地帯と化していた。


バイクで三宮の街を駆け抜ける。そごうデパートは真ん中から縦に
裂けている。神戸市役所は建物のワンフロアが丸ごと潰れ、達磨落としに
なったかの具合だ。近代都市建築は悉く焦土と化した。道も荒れており、
オフロードバイクで良かったと思った。戦争で爆撃を受けた何処かの
国の、テレビ画面の中だけでしか知らないような光景が、今目の前にあった。


親戚は一応無事だった。その後数日に分けて、一人ずつ僕のバイクの
後ろに乗せて、宝塚市にある親戚の知人宅へと避難させた。


それから更に数日。大阪中央郵便局から僕に電話が掛かって来た。
その頃僕はよく郵便局でアルバイトをしていたのであるが、その為かも
しれなかった。救援物資の仕分けをして欲しいから来てくれとの事。
大学の長い冬休み中だったから、可能だ。すぐに駆けつけた。しかし
全国から届くこの救援物資。仕分けたは良いが、どうやって被災地に
届けるのだ? 現地に行くのに四輪ではたっぷり半日は掛かるぞ。
やがて仕事にならなくなった。


僕は程無く被災地に行って配達業務をしてくれと頼まれた。バイクに
乗れる人間が要り用だとの事だった。神戸市灘郵便局へと向かった。
しかし鉄道はそこへ至る前に寸断されていた。ひとつ前の駅にて降り、
徒歩で向かった。駅前では炊き出しが行われていた。よくドラマ等で
観る、戦後の炊き出しの風景がそのまま平成の世に現れた。


鉄道で通い続ける事は無理であると判断。バイクに切り替えた。
四輪ならば半日掛かる道程を、1時間で通った。正解だったと思う。


スーパーカブを借り、早速灘区の町を走る。しかし、行く家行く家
倒壊しており、または家があっても住人が行方不明だったりして
これまた仕事にならなくなった。避難所にいる事が解れば届けたが、
そんなケースは稀だった。


破壊された水道管からちょろちょろと流れる水を、バケツで汲んでいる
小さな女の子を見た。頭部に巻かれた包帯に、血が滲んでいた。
その事が忘れられない。あの子は、元気ならばもう成人している筈だ。
あの後、どんな人生を歩んで行ったのだろうか。いや、あの子だけじゃない。
巻き込まれ、生き残った方々は。


僕は灘郵便局の内勤に廻された。と云うより、それしか仕事が無かったし、
それが一番効率の良い仕事だった。つまり、郵便物を局に自ら取りに来る
方々に、届いている郵便物を手渡す仕事なのだ。何処にいるか解らない
被災者のみなさんが直接来て下さるのだから、確実だし、安否確認にもなる。


被災者のみなさんは皆臭かった。体臭がひどく、局内は異臭に包まれた。
それ程に、状況は劣悪だった。しかし僕は、所詮その劣悪さのほんの
一端しか知らない。



灘郵便局から



鉄道の高架が崩壊している



これは本日撮ったその界隈。
灘郵便局にも行きたかったのだけれども、なにぶん土地勘が無い。
残念ながら行けなかった。地図をもっと調べておけば良かったな。




毎日毎日、バイクで通った。何もかもが破壊され尽くした神戸の街と、
そこからほんの数十kmしか離れていない、何時ものように人々が平和を
謳歌する大阪の街との温度差が、何とも言えなかった。正に「温度差」だ。
こんなにも近いのに。誰もが、関係の無い話だと思っているのではないかと
感じてしまう程に、差が、あった。


そしてそんな僕も、やがて被災地を離れ、そこで頂いたお金で小さな旅に出た。
その顛末は当日記のカテゴリ[紀伊半島徒歩旅]にて各々記している。
当時の僕にとっても、所詮は他人事だったのか? 募金はした。でも、僕は
被災地を去った。それっきり忘れ、その後の生活の為にばかり動いていた。


それから15年。僕はそれ以来の神戸を訪れた。残念ながら四輪ではまるで
自由が効かず、三宮を巡ったり、東遊園地へ行ったりは叶わなかった。
バイクを動かせるようにしておけばよかったと、今更ながら後悔している。



きょうの三宮。人々が行き交う。


Loftがあり、マルイデパートもある。かつて縦に切り裂かれたそごうも。



新長田の駅前に来た。


反対側からだから解りにくいけど、1.17を模っているね。今朝はこれに
キャンドルが灯されたのだろう。そして、日暮れにも。


僕は被災者では無いし、親戚も無事だった。所詮部外者ではある。しかし、
ほんの少しではあるが、当時の惨状を見て、触れて、感じた。そして
考えた。想像した。


大切な事は、忘れない事だ。そして、解らないなりに想像してみる事なのだ。
災害でも、戦争でも、人の世に起こるあまたある苦しみの数々を。
当事者からすれば、お前なんかに何が解るのだ、と思われるかもしれない。
でも、何も考えないよりもずっとマシである。考える事、想像する事。
ほんの少しでもいい。続けなければならない。


そうする事で、少しずつでも何かが進む。動く。始まる。
自らに関係があろうがなかろうが、どうか忘れないで欲しいと思う。
これは、この国に起こった事なのだ。そしてまた、今ハイチで起きている。
明日は、我が身なのかもしれないよ。その時あなたは、どうする?
僕は・・・・・・


追悼1995年、神戸。

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明日は今日見に行った新長田の鉄人の事書きます。こちらは明るく行こう! 
復興のモニュメントたるドラム缶人形(いや、最初写真で見た時はかっこ
悪く見えてそう思ったんだよね)は、実際目にすると結構かっこ
良かったんですよ。


明日もいい日にしてみせますよ。ではまたね。