ツネコさんとの曖昧な記憶

ツネコさん・1998年頃

疲れております。
憑かれてもおります。


平日の休日です。


僅かに掃除をした。
仕事の打ち合わせ
もどきも電話でした。
休日なのに、まるで
心の余裕が無い。


暫く前に録画しておいたのに時間が無くてまるで観られなかった
NHKの特集番組は今回も観られなかった。奈良から和歌山の新宮までを
結ぶ日本最長路線バス旅の、ひたすらに地味ーな特集。でも僕は
こういうの好きなんですよ、ええ。しかし何時になればゆっくりと
観られるのかしら。録画しておいたのに全く観られない番組が
増えてしまつた(観る時間はあるのかもしれないが、前述のように
心の余裕が無いのさ)。

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外付けHDDの中身の整理だけは少し。その中にあったのが上記の写真。


生きる―ホームレス歌人ツネコ・心の旅路

生きる―ホームレス歌人ツネコ・心の旅路


僕が撮影したTOPの写真は確か1998年の・・・晩秋だったかなあ?
記憶が曖昧だ。この写真は後年記念に(?)スキャンしておいたんだったっけ。
実際の写真が見つからない。押入れにでも紛れ込んでいるのだろうか。


当時の僕はいい歳をしてプータロー状態で、週末になるとオートバイに
ギターケースを積み込んで深夜の大阪梅田界隈のアーケード街を訪れて
いたのだったっけ。その界隈に溢れ返っていた、ストリートミュージシャン達の
しがないひとりとして。


自分で歌を沢山作ったりしたものだから(くだらんものばかりだったが)、
それを発表したくてたまらなくなったのだ。梅田のこのアーケード街には
ストリートミュージシャンがいっぱいいると伝え聞いて、やるなら此処だと
ある時出向いたのだった。様々な人々と知り合いになれて、とっても
愉しかった。アンプなんて持っていなかったから、アコギを掻き鳴らし、
これでもかと大声を張り上げて青臭い自己主張をしてたっけ・・・


ある時、何時も黄色い帽子を被っているおばちゃんと知り合った。
聞くと、歌人であり、自作の歌を地面に並べて売っているとの事だった。


そのおばちゃんの近くにはTOPに写っている若い女性が座っている事が
度々あり、僕はその素敵な女性が、僕が書いた歌と僕の声とを大層
褒めてくれたのが嬉しくて、彼女会いたさから更に梅田通いに身を入れた。
彼女は色紙に相田みつをの様な詩を書いて、これまた地面に並べていた人
だった。当時、流行ってたんだよねそういうの。いや、今だにその手の
方々をたまーに見掛けるが・・・僕がある事に関する歌を歌ったら、
彼女はとても喜んでくれて、自ら書いた色紙を呉れたっけ。あれ、
何処に行ったかなぁ。捨ててはいないから今でもある筈だ。今度探そう。


さて、その彼女がいない夜でも彼女がいた同じ場所で歌っていた僕は、
彼女がいた場所に大概いた黄色い帽子のおばちゃんとも度々出くわす
事と相成ったりした。


ストリートミュージシャンには好き嫌いがあったらしく、気に入らないのが
そばで歌っていると、もの凄く渋い顔をしてブツブツと文句を言っていたが、
幸か不幸か僕がやって来ると「おお、オートバイのにいちゃん、来たか!」と
喜んでくれ、何度も何度も缶コーヒーを奢ってくれたっけか。
僕の歌も、それなりに気に入ってくれていたようだ。と、しておこうか。
兎にも角にも、僕と会うと何時も微笑んでくれた。それだけは確かだった。


おばちゃんの素性は全く知らなかった。勿論、上記の様な本を出していた事や
当時のマスコミに結構取り上げられていたらしい事も。知ったのはもう少し
後の事だったが、その頃は僕はもう路上で歌う事から脚を洗っていた。
詳しい理由は書かないが、歌うのが鬱陶しくなってしまったのだった。
詩人の麗しき彼女の事も、出逢った様々なストリートミュージシャン達の
事も、あっという間に忘却の彼方に追いやられてしまった。


それからもう少し時は流れ、2003年の夏だったか、某所にてたまたま手にした
新聞(確か朝日新聞だったかな?)の記事を読んだ僕は、少なからぬ衝撃を
受け、更に時をおいて心の奥底で唐突に慟哭した。僕が追いやってしまった
もの達が一気に舞い戻って来た。舞い戻って来たけれど、僕自身はもう
2度とその頃には戻れなかった。戻りたいとは思わなかったけれども、戻れ
ないのだと改めて確認すると、海溝に落ちて行くようなどうにも表現しかねる
心持ちとなった。


おばちゃんが死んだという記事だった。おばちゃんは「ツネコさん」という
元(?)ホームレスだった。


今日、少しだけ「ツネコさん」について調べてみた。今まで調べてみようとは
あまり思わなかったのだけれども。


「ツネコさん」は2003年8月5日、大阪市西成区で亡くなったそうだ。享年76。
僕が出逢った頃はどうやらホームレスを脱し、生活保護を受けながら西成の
アパートで暮らしていたらしい(正確ではないかもしれない、御免)。


葬儀が執り行われたのは西成のドヤ街、釜ヶ埼にある福祉施設「ふるさとの家」


今、釜ヶ埼界隈をメインの仕事場として久しい僕には、結構お馴染みの
場所だったりする。何度か脚を運んだ場所だ。奇遇としか言いようが無い。


10年前、全く存在すら意識していなかった、自分の人生とは一切関係無いと
思っていた薄汚いドヤ街釜ヶ埼。「ツネコさん」がいた(のか?)釜ヶ埼。
今僕はその界隈で仕事をしている。その地に暮らす人々相手に介護の仕事を
していたりする。これもまた何かの縁なのだろうか?


おばちゃん、俺は歌わなくなったけど、実はまだ歌ってるんだぞ。
声には出さずとも、実はまだ歌ってたりするんだぞ。
ボロいギターを抱えてた「オートバイのにいちゃん」は、
実はまだ、歌い続けているんだぞ。あんたが葬られた釜ヶ埼の界隈で。
声にはならない声だけど、歌とは思われない歌だけど。

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明日からも頑張ろうぜ。しんどい事ばっかだけども。
明日もいい日にしてみせますよ。おやすみなさいませ。


ありゃ、またも似合わねーカッコつけちまったかいのう、ヘヘヘーイ!