樽井サザンビーチにて


人間なんてものは大概
いい加減なものだから、
憶えておかなければ
ならない事をどんどんと
忘れてしまう。


時には忘れた方が良い
事もまたあるのだが、
肝心な事ばかり忘れてしまうから始末に負えない。


10年前の今日、アメリカで大事件が起こった頃、僕は少し
不安定な日々を送っていた。何かと不安定だった。仕事は
一応していたけれど、何時どうなるか解らない状態だった。
不安が多かった。今思うとそんなに悩まなくとも良かったの
かもしれないが、何もかもが不安定だった。あんな日々はもう
金輪際思い出したくないのだが、記憶の縁に刻まれてしまって
いるのかして、その後数年間は時々思い出しては吐き気を憶えていた。


最近はその吐き気とやらは遠ざかり、どうにか苦笑にまで持って
行ける程になれた。今現在がそれなりに順調であれば、過去はどんな
事が起こってもいずれ想い出話に出来る。そんな風に感じているし、
そうありたいとも思う。所詮僕の苦しみなどその程度のもので
あったのだと。この苦笑はいずれ莫迦笑いに変わるだろう。


そうやって時が流れて行く。歳をとって行く。終わりに向かって。
それがきっと人の営みであり、この短い人間の命の刹那に輝く
在り様なのだと信じている。苦しみの歴史は何時か輝く日の為にある。


でもそれは僕には当てはまっても、決して当てはまらない人々もいる。
10年前のニューヨークであり、たった半年前でしかないのに忘れてしまい
そうになっている東北の事であり。生涯消せないものを背負った人々。


僕は一応平和に暮らしている。過去がどうした。今は平和だろう。
どうにか仕事もしているし、旅にも出ている。これ以上の何を望む?
当時ニューヨークにいたFさんや、震災に遭ったレイド氏の心の奥底に
あるものは一体どのようなものなのだろうか。経験した事で、その後
何が変わり、何が変わらなかったのだろうか。こんな僕ですらかなりの
変化があったのだけれども、もっと大きな事を経験した方々の人生は
一体何が。


生き抜きたいと願うすべての人々に、どうか幸あれ。
人は生きて、その瞬間瞬間に生きた証を轍の様に残すのだ。


明日もいい日にしてみせますよ。ではまたね。