悩み多き我々よ

アパホテル天王寺

天王寺アパホテル
見える。画面右下には、
トタン板で出来たホテル
も見える。


今日は写真撮れず。
よって、例の事件発覚後、
仕事でいつも通る道路沿い
より撮影したものを。
いや、仕事中に撮ったものではないけんど。


相も変わらぬくだらなさ。例によって、御免。

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昨夜かかって来た主任からの電話を受け、今朝少し早くから
いつもと違う動きをドタバタと。どうして最近こうも
ドタバタしているのだろう。疲れるね。でもどうにかなった。
どうにかなれば、今日という日、今日という人生は、それで
こうにか。たかが私の人生は。♪されど私の人生は・・・


もうすぐ読了する、なだいなだ著「くるい きちがい考」に、
このような箇所があった。神経症的な悩みや、鬱病的な悩みに
ついて述べた箇所から。ちょいと長い引用で、これまた御免。

神経症の人間は、自分が平均でない、ふつうでないことを
悩む。だが、そのうちに人間いろいろあるんだ、人間は
みな同じじゃない、と認識するようになる。つまり自分は、
他人とくらべてちがっていることを悩むべきではない、
自分がこうあるべきだと思われるものとの差を悩むべきだ、
と考えるようになる。すると、悩みは少なくなる。もちろん、
自分を進歩させようとすれば、悩みはなくならない。だが、
悩んで当然なのだと考えるのだから、あえて悩もうとする。
病気は、人間を悩みで押しつぶす一面もあればそうした悩みを
とおして成長させる要素も持っているんだよ。病気のある
ものは、生まれいずる悩みのようなものなんだ。


わたしとは何ぞや?と悩み苦しむ事は、他者、さらに社会との差違を
激しく、明確に感じる事。これは大層苦しい。しかし著者曰く、それは
自我を確立する上で、とっても大切な事である、と。世間一般で云う、
平均や常識の枠に(じゃあ平均ってなあに?常識って?と云う事にも、
この本では採り上げられている)囚われてしまい、その枠外にある者を
異常であると見、自分は枠内にある筈だから正常であると思い込もうと
する人々は、自分には問題が無いと見立てた人々は、逆に自我の確立への
一歩が踏み出せない、そして自分と同じようでは無い人間に対して、
著しく不寛容である・・・らしく。


近年、このような意見はあちらこちらで聞くような気がするけれど、
この本は1978年が初出とあるから、もう30年近くも前のお話だ。
ああ、変わっていないのだなあ、と思う。何時の世も、変わらぬ悩み。
どうにもおかしいのは、別段今の世に始まった事では無いのだね。
ずっと、ずっと、人の世は、おかしかった。人とは、悩む為に、在るのか。

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今朝、統合失調症で、鬱傾向にある利用者さんと時間を割いて話し合う。
この本のお話を用い、かなりアレンジして、ごく緩やかに励ます。
「頑張って」は禁句だ。だってその人は、もう目一杯頑張っている。
これ以上、どう頑張ればいいのか、と言う所で一旦完全に潰れた人なのだ。
しかし難しい。どうしたらいいのか。どうすれば、人を浮かび上がらせて
あげられるのか。僕もまた、悩む。いや違うぞ、「浮かび上がらせて」だと?
思い上がるな。考えろ、もっと考えろ。


ここいらで燃料切れです。もう眠いです。もっと考えたいけど、
ここいらで。焼酎をやめて、本当に久々にワインを。安物だけど、
一応酸化剤を使っていないやつを。ワイン如きでもう酔った・・・


じゃあ寝ます。明日もいい日にしてみせますよ。
あー唐突だけんどおやーすみ。